泥臭いWEBの底から~WEBディレクター覚書~

WEBディレクターというのは何を考えておるのか。その一例。

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前に「マジョリティユーザ視点のweb標準化」という記事で

マジョリティユーザの視点でweb標準化すべきなのは、技術的な事柄でもなければユーザビリティなどで「最適解を工夫すること」でもなく、「ほどほどの落しどころでいいから、とにかく同ジャンルのサイトは同じような構造、ページ内要素にすること」だ。

と書いたように、webサイトのインターフェースについてはなるべく標準化されていたほうがいいと考えている。ところが、こうしたインターフェースを超えるものとして、「直感的なインターフェース」というのがしばしば(たいていは賞賛と共に)取り上げられる。だが、自分はこうした「直感的なインターフェース」というものをいまいち評価できない。それどころかユーザビリティという視点から疑いすら抱いている。

「直感的なインターフェース」というのは、(なんの説明や補足、言葉がなくても)何が起こるか理解できる、すぐに使いこなせるということだろう。具体例として、「直感的なユーザインターフェイスって何?」という記事では「iPhoneやiPod touchの「左右に指を滑らせることで画像を切り替えるUI」」というのが取り上げられている。確かにあれはユーザインターフェースとして素晴らしいとは思うが、操作性に優れたものであるかは疑問だ。

たとえば。上記記事では実際のものと、ボタンによるユーザインターフェースだった場合とを図で並べ、前者に軍配を上げている。

『次の画像に移動するには「次」ボタンを押すんだな』という判断が余分に必要になります。

というわけだ。しかし、これは逆なんじゃないだろうか。何の予備知識もなく初めてiPhoneやiPod touchを見たユーザはまず、「あれ?ボタンがない。どうやって操作するの?」というところで戸惑うはずだ。偶然画面に触れて指を動かすと画像がスライドするのでやっと、「ああ、指で左右にスライドさせればいいんだな」と理解する。しかし、また別の機能やアプリを立ち上げると、またボタンも何もない。そこでまた、「今度はどうやって操作するんだ?」と考え込む。慣れるまではこの繰り返しである。これのどこが便利なんだろうか?

プロダクトの分野だけではない。webサイトでも同様である。「直感的な~」とされているサイトにアクセスすると、まず「メニューがない」場合がままある。インターフェースとしてのテキストリンクもない。「どこから操作するの?」である。でたらめに触っていると「偶然に」操作方法がわかる。すべての必要な操作方法を理解するまでは、偶然頼みの試行錯誤を繰り返すことになる。ボタンやテキストリンク、あるいはメニューをちょっと設ければ解消されそうなものなのに。

そもそも、私の「直感的なインターフェース」に対する理解が間違っているのだろうか。その可能性はある。しかし「なにが直感的か?」という部分にこそ、誤解があるんじゃないだろうか。

iPhoneやiPod touchに代表される類のインターフェースというのは、人間がそれを使う時点で「経験によってある程度の学習をしている」という事実を無視している気がする。そりゃあ、子供のように経験による学習が圧倒的に少ない場合は別だが、そうでなければ、たいていの人はなにがしかを学んでいる。「あれ?ボタンがない。どうやって操作するの?」と戸惑うのだって、「こうしたものは操作するボタンやメニューがあるもの」という経験と学習があってこその話だ。そうした先入観を打破したいならともかく、使い勝手を考える上ではその先入観に合わせることが大事なんじゃないだろうか。

ひとたびこうした経験と学習をしている人ならば、「一見するとメニューやボタンといったインターフェースが何もない」デバイスよりも、「メニューやボタンがある」デバイスの方が「直感的に」使いやすい(テレビのリモコンがどんなメーカーのものでも、だいたいは初見ですぐに基本的な操作ができるのも、このためだろう)。そして、こういった人の方が実際のユーザにはずっと多いのだ。

これはサイトにも当てはまる。あるサイトにアクセスしている人がこれまで他に一つ以上のサイトを見ている可能性は、そうじゃない可能性よりはるかに高い。前者の人はサイトにアクセスしたとき、そのサイトのインターフェースをこれまでの経験と学習から理解しようとする。ところがiPhoneやiPod touchに代表される類のインターフェースはそうした認知の流れに従わない。するともう、戸惑うわけだ。

というわけで、自分が疑っていたのは「直感的であること」ではなく、往々にして「直感的であるとされているもの」の方だったことが分かる。こうした「直感的であるとされているもの」には他にも疑わしい点があるのだけれど、それはまた次にでも。
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